もしもあなたが性暴力にあったら・・・
そんなことを考えたことはありますか?
悲しいことですが、事件になっていないだけで、親や兄弟、親戚の人、知り合い、そして見知らぬ人から性暴力を受けて誰にも言えずに一人で苦しんでいる人がたくさんいます。
性別も関係ありません。
性暴力はぜったいに許されない「犯罪」です。
もしもあなたが被害にあっていたら、被害者のあなたはぜったいに悪くないし、あなたに責任はありません。
あなたは悪くないよ・・・このことを忘れないでくださいね。
そしてもしも性被害にあったら、
できるだけ早く、できれば被害後24時間以内に、
できれば、シャワーを浴びたり、トイレにも入らないで、
被害にあったままの服装で、
近くのワンストップ支援センターか警察へ行ってください。
着替えた場合は、すべての服をビニール袋などに入れて持参してください。
もし、すぐに行けないときは、下着や洋服などはそのままとっておいてください。
ワンストップ支援センターとは、性暴力にあった人が警察や婦人科などいくつもの機関に行かずに、1か所ですべて対応してくれる支援施設です。
性被害者への支援経験のあるスタッフなどが対応をしてくれます。
警察では、被害者が女子の場合、希望すれば女性警官に話を聞いてもらえます。
そして、婦人科に連れて行ってくれます。
婦人科では、お医者さんが、傷の手当、性感染症に感染していないかの確認、
妊娠への対処、加害者の証拠収集をしてくれます。
言いたくないことについて聞かれたら、言わなくても大丈夫。
断る権利があります。
相談するには、勇気がいるけれど、ワンストップ支援センターでも警察でも、なるべく信頼できる人と一緒に、勇気を出して行ってほしいなと思います。
あなたを助けたい大人が必ずいます。
以下は「性暴力を受けているこどもたちへ」というビデオです。
ぜひみてくださいね。
最近では、自分も性暴力を経験したという主に女性たちが、
世界中で「#Me Too」と声を上げていますね。
そして性被害にあったことを他の人に話した人の多くが、
「気持ちがやっと楽になった」と言っています。
でもなかなか経験したことを言い出せないよね。当然です。
それでも、少し話してみようかな、と思いたったら、
ぜひ相談してみてほしいなと思います。
少しでもあなたの苦しみが癒(い)えますように・・・。
幼少期からの性暴力をきっかけに、30年におよび壮絶な体験をしてきたほしおか十色(といろ)さんから、みんなにメッセージをもらったよ。ほしおかさんは、現在自分の経験をもとに、子ども達のさまざまな支援活動をされています。
★ほしおか十色さんが、これまでの経験を語っている記事は、ページの一番下にあります。みてね。
自分の大切なからだやこころを守るために
知っておいてほしいことが説明されているリーフレットを紹介します!
わかりやすく書いてあるから、ぜひ読んでみて。
*もし小学生の兄弟姉妹がいたら、ぜひみせてあげてください。
最後のページは保護者向けのメッセージです。
大人にもみせてください。
「大切なあなたへ」は、クリエイティブ・コモンズ表示-非営利-改変禁止4.0国際ライセンス の下に提供されています。
(2015年 福岡市子ども虐待防止市民フォーラムでの講演より)
ほしおか十色という名前は、本名ではありません。ペンネームで、私をずっと支え続けてくださった支援者の方からつけていただきました。その言葉の意味もちゃんとあります。ほしおかという名字は、特別な大人に出会う星のもとに生まれた子という意味です。十色と聞くと、皆さんは十人十色を想像されるのではないかと思いますが、私の場合は、一人十色として、さまざまな環境で人格をカメレオンのように変えて、カモフラージュしながら生きてきたのだという意味を込めていただきました。
このフォーラムの出演にあたり、肩書をどうするかと聞かれた時に、私は、「肩書等は一切要りません」と最初に言ったのですが、唯一言わせていただくならば、「当事者として生き抜いて、やっと今ここにいます」という形で、「虐待サバイバー」という肩書にしていただきました。
私が受けてきた虐待をこれからお話しさせていただきたいと思いますが、きれいごとに聞こえることもあるかもしれませんし、もしかしたら、こんなことがあるはずないと思われることも中にはあるかもしれません。ただ、私は体験学習をした上でしか物事を言えない人間ですので、そこは真っすぐそのまま私の言葉として、当事者の言葉として聞いていただけたらと思います。
私が生まれ育った環境は、すごく厳格な家柄で、しつけもすごく厳しかったです。礼儀正しくいなければいけない家です。礼儀作法は厳しく教えてもらいました。世間体というものが一番大事にされていた家庭です。はたから見るといい家族、いい家庭というように見えていたのではないかと思います。
そんな中で、暴力は日常的に起こっていました。誰が何をしたからこうなったという問題ではありませんでした。父の機嫌が悪くなれば、まず母に手を上げました。DV家庭の中での心理的虐待があり、また、その暴力は母だけではなく私にも向かい、身体的虐待もありました。もう恐怖の一言です。母は泣き叫んでいて、私は「いつか母が出ていってしまうのではないか」とずっと考えていました。それを見ながら何もできない自分の存在というものが歯がゆくて仕方なかったです。
そういう暴力は物心がついたころからずっとありましたので、それが厳しい家庭の当たり前の光景なのかなと思って過ごしてきました。精神的にも支配されていたという部分もあったのでしょうか、“おうちであったことは絶対に外で話してはいけない”という学習を自然にしてしまっていたのです。そのため、虐待が身体的なものから性的なものに移っていっても、誰にも話せませんでした。
性的虐待と言われても、その当時、ぴんとはこないのです。今になれば、「ああ、あのときから始まったんだ」というのはわかりますが、当時はわかりませんでした。
性的虐待が始まったのは小学校5年生でした。母は仕事で朝早く出て、夜遅く帰ってきます。私は小学校から帰ってきて母が帰宅するまでの間、父と二人になります。最初のきっかけはマッサージでした。最初は父に「マッサージをしてくれ」と頼まれました。私はマッサージというものがよくわかりませんでしたので、「どこをどうしたらいいの」と聞きました。見たこともない、したこともないような状態でしたので、言われるがままで、触れる部分は性器の方にも移っていきました。
次に、父が「自分もしてあげるよ」と、役割が逆転しました。マッサージは気持ちのいいものだということだけは幼いながらにも知っていましたので、本当に何の迷いもなく、「お父さんが私にそんなことをしてくれるんだ。ありがとう」という形で私は受け入れてしまったのです。マッサージを受けることで、体に触れ、性器にも触れます。そして、だんだんエスカレートしていきます。最初の一、二回ではそこまでハードな接触はなかったのですけれども、日が経つにつれ、時が経つにつれて、だんだんとそれは「フィニッシュ」というところまでたどり着いてしまうわけです。それが小学校5年生のときでした。
私が小学校6年生のとき、性教育を受けました。その当時私が受けた性教育は、「体はこういうふうにつくられていて、こうやって赤ちゃんが生まれて、こういうことをしたらこうなるんだよ、だから体を大切にしましょうね」という内容でした。私は「体を大事にしましょうね」と言われたときに、「ああ、私はもうだめなんだ」と諦めてしまいました。「私はいけないことをしてしまっているのだ」と感じ、諦めに変わっていったのです。本当に、私には誰にも言う機会がありませんでした。
ただ、些細なサインは出ていたようで、小学生のころは髪を抜く癖がありました。頭のてっぺんは本当に禿げ上がっていました。それでも、「どうしたの」と聞かれたことはありませんでした。
学校に行くのも、まだ用務員の先生が来る前の時間です。まだ薄暗い時間帯、6時とか6時半に学校に行きます。家にいたくないからです。母が出る時間に合わせて私も家を出ました。学校の門が開いていませんので、ランドセルを横向きにして、ぽいっと門の柵のすき間から中に放り投げて、自分も横向きになって学校に入ります。薄暗い校庭を歩いて校舎の前に行って、体育座りをして待っていると、用務員の先生が開けてくれました。
帰るときも、最後の一人の先生が帰るまで、何かしらの口実をつけて、許す限りの時間までずっと学校で過ごしていました。だからといって、誰か友達と学校に残って遊んでいるわけでもありません。まちかど図書館のようなところが身近にあれば、私もふらっと寄っていたのではないかと思うのですが、そのときの私には学校の中でひっそりと過ごすしかなく、目立たない生徒だったと思います。それも、今考えると、SOSの一つのサインだったのかなと思います。
中学校に上がっても、ずっと性的虐待、身体的虐待は続いていました。もちろんDVも続いていました。中学に入って、1,2年生までは何も変わらず、普通に目立たず過ごしていました。ただ、中学3年生になったときに何かがぷつんと切れたのです。
先ほどの松本先生のお話で、靴を履いていることは社会的に通常だというお話がありましたが、私は自然に異常行動をとっていたようで、素足でずっと学校生活を送っていました。誰かに気づいてほしいとか、そういったものではありません。私はいじめを経験し、よく靴を隠されていました。そんな中で、まず靴がなくなったことを親にしられたくありませんでした。私のせいで家の中をもめさせたくなかったのです。私が父親の機嫌を悪くしてしまえば、母親に向かってしまう。だから、それは絶対にできなかった。言えなかった。それで、上靴を履かなくていい状況にするには、何も怒られずに済むにはどうしたらいいのかと考えました。靴下で学校内を歩くと靴下が真っ黒に汚れてしまい、それもまた家で問題の一つになりますので、私は靴下を脱いで裸足で過ごしていました。こういうこともSOSのサインだったのではないかと思います。
性的虐待は中学を卒業するまで続きました。私の中では、もうそれでいいという諦めが大きかったのです。私がそういう役割を担うことで、母を守れる一つの術ができたと思ったのです。それで安心しました。その分、私は心を持って生きてはいけないと思いました。感情を感情として感じてしまったら私は壊れてしまう-私が中学3年のときに思ったことです。
高校に上がると、自分自身に向き合うことがすごく苦しくて仕方がないという状態になりました。「私って何なんだろう。私は何でこんな状態でここに存在していなければならないんだろう」と。そのときには、我が家は周りと違ったおうちなのだということも気づいていましたので、そんな状況の中で、私は何で生きていて、どうしてここに存在していて、何で、何で・・。もう全部「何で」です。学校に行く途中も、授業を受けていても、帰るときも、ずっと死ぬことを目標に生きてきました。誰かに話すなど、一切考えられなかったのです。
高校生になったときには父からの性的虐待はなくなっていましたが、「今日から何もしないよ」と言われる性的虐待などありません。いつの間にか、今考えればあのころ終わっていたなと思うのです。いつ起こるかわからない、またいつ求められるかわからないと思いながら、ずっと無駄なアンテナを張り続けて生きてきました。一生懸命自分を取り繕い、学校での私、おうちでの私と、いろいろな自分をつくっていく中で、いろいろなスイッチを持って生きていくようになります。家に帰るとき、ドアノブに手をかけた瞬間に自分の中でパチンと音がして、いろいろな私になっていくのです。そうやってアンテナを張り続けて、本当に音を立てて崩れていったのが高校生でした。そのときは、自分の取扱説明書が欲しいと思うぐらい、私が私自身を理解できていなかったのです。
そこで出てきたのが自傷行為、リストカットでした。摂食障害、下剤乱用、市販薬の過量服薬(オーバードーズ)といったものが表に出てくるようになりました。何で私はこんなことをしているのだろうと思いましたが、自分の中にたまっている毒というか、もやもやしている気持ち、自分でも何が何だかわからない自分の気持ちを、何か流れ出るものとして、目に見えるもので私が自分で納得をしたかったのだと思います。それを見てほっとしている自分がいました。
そこから、電話相談をするようになりました。全国の子ども専用の相談電話に毎日毎日かけ続けました。それもリアルな私ではありません。その当時、リアルでは17歳、18歳でしたが、実際に電話口で語るのは幼少期の私です。声も変えて、幼く語ります。中学生になってみたり、小学生になってみたり。電話の向こう側にいる大人たちは、本当に子どもに語りかけるように、すごく優しく話をしてくれます。「つらかったよね」「苦しかったね」と。私はその言葉を、17歳で、電話越しで、初めてもらったのです。そのときは、ただうれしいという言葉だけでは表現できないぐらいでした。ぐちゃっと音を立てて心臓が握り潰されるのではないか、そんな形でうれしさをかみしめました。
それが、それまでの依存症とセットになって、相談電話依存に移っていきます。その当時、まだ携帯電話のかけ放題がなかった時代でしたので、携帯の料金が月に20万円から30万円になりました。大人になって初めて、私はその額の大きさ-20万円、30万円を働いて稼ぐ大変さを知りました。形にならないもののために、でもそのときその一瞬を過ごすためのお金を工面するために、私は援助交際という形で体を売るという手段に出ました。
毎日、出会い系サイトで相手を探しました。それが何ヶ月か続いたときに、待ち合わせした方が暴力団の関係者で、事務所に連れて行かれました。セックスの映像を撮られて、「これを知られたくなかったら自分のもとで働きなさい」と、そういう状況にされました。私は、絶対に親に知られてはいけない、学校に言われても困る、だから応じました。その人が毎日学校の前に車で迎えに来ています。学校が終わったらすぐその車に乗って、いろいろなところを回りました。毎日5人、6人、7人回りました。何度も中絶を繰り返しました。もちろん親には言えないので、「闇」のつく病院で何度も中絶という経験をしました。
そんな中ででも、出会った大人の中に、「この子はいつ死ぬかわからない」といって寄り添ってくれる人がいたのです。きっかけは、たまたま再会した中学校のときのスクールカウンセラーの先生でした。その先生に、「今こういう状態でね」ということを、しれっと、世間話みたいに話したのです。そのときの私は感覚が麻痺しているというか、そうしないと生きていけないと思っていたので、笑いながら話をしていました。
これは大ごとだということで、その先生が何度かドライブに誘ってくれました。何度かお食事にも行きました。何度目かのドライブのときに着いた場所は、少年サポートセンター、警察でした。「何でこんなところに来たんだろう」と驚きました。でも、後になってその先生は私に言ってくれました。「今、この瞬間、1秒1分を何とか生きていてほしかった。何とか生きてくれてさえいればどうにかなると思って。だから必死だった」と。
そこで出会ったのが少年育成指導官、ほしおか十色の名づけ親に当たる人です。その人とは、いまだにけんかしながらですが、十何年という関わりを持たせてもらっています。いろいろな言葉をかけてもらいます。「生きていてくれてありがとう」と言われることはすごく恥ずかしいし、「何を言ってるの」と思いますが、そう言われることが純粋にうれしいと思えるまでに30年かかりました。30年生きて、「生きていてくれてありがとう」と言われて、「生かしてくれてありがとう」とやっと素直に返せるようになったのです。私には成人を迎えてからもずっとそばで寄り添ってくれる大人がいてくれました。だから、私には死ぬすきがなかったのです。それでも死のう、死のうとしていました。
成人して、母を亡くしました。ずっと母を守ってきていたつもりだったのに、がんで他界してしまいました。5ヶ月の闘病生活で母と一緒に生きることができたのですが、私の中では、母を見送ったら私も終わろうと思っていました。それが支えだったのです。それまでは私は壊れてはいけないと思っていました。母のカウントダウンと同時に、私のカウントダウンも始まったのです。
でも、母が亡くなる前に、「人から後ろ指を指されても、床をはってでも、あんたは生きていかなつまらんよ」と私に言ったのです。多分、母は私の気持ちを知っていたのです。母は自分の死ぬさまをもって、自分の生きざまをもって、私に生きろと教えてくれたのだと思いました。それで、私は母と、「何があっても絶対に生きるね。寿命を全うしてお母さんのところに帰ったら、また『お帰り』って迎えてね。だけん、生きるよ」と約束をしてしまったのです。今になって、何でこんな約束をしてしまったのだろうと思いますが、それが私を生かしてくれているのです。そこに、サポートしてくれる大人たちが今も私の柱としていっぱいいてくれています。
「1分1秒生きていてほしい」。その気持ちは、私の中で今も変わらず、かけてもらってうれしかった言葉です。そういったものを今も肥やしにしながら生きていますが、母が亡くなった後は、私もやはりぼろぼろと崩れていきました。きっかけは、亡くなった母が残していった在宅医療用のモルヒネです。母の死後、私はきつくて、それを飲んでしまったのです。そこから薬物依存になっていきました。
そして、何とか復活できたかな、日常生活を送れるようになったかなというとき、中州でホステスとして働き出しました。中州にはいろいろな子がいます。私は夜回りホステスとして新聞に取り上げられましたが、私は夜回りをしてるつもりは一切なかったのです。たまたまそこにいたから、何か気になって声をかけました。
自力で不適切な家庭環境から逃げ出してきた子たちを「非行」という言葉でひとくくりにまとめないでほしいのです。見返りを求めない状況で、温かい御飯や寝床を提供してくれる場所があることが大切です。私は家出をする勇気もひきこもる勇気もありませんでした。家から出てきてくれたというのは、一つSOSを出してくれたということです。そこに寄り添ってくれる人が存在することで、「あなたが大切なんだよ」というメッセージが伝わると思います。そのとき、初めて彼女たちは大人や社会を信頼して、自尊心を周りが育ててくれて、未来や夢をやっと持てるようになって、そこから自立という一歩を踏み出せるのではないかと思います。彼女たちにふと寄り添える大人の一人であれたらいいな、そうなれるようにと願っています。
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